雨といの歴史 雨といの普及(江戸時代~)

※当社独自調べ

都市化と町屋の発達とともに民家用の雨といが普及。

江戸時代に入ると商業が盛んになり、江戸、大阪、京都などを中心に人口が集中し、都市が形成されていきます。
それに伴って住宅も密集して隣家と軒を接するようになり、隣家の雨水が流れ込む、雨だれが跳ね返って壁を汚す、
土台を腐らせる、といったトラブルが起こるようになります。

一方、密集した「かやぶき、板ぶき屋根」の町家は火災に弱く、ひとたび出火すれば次々と類焼して、
町中が火の海ということがたびたび起こりました。
大火に悩んだ幕府は1720年、防火のために民家の屋根を「瓦ぶき」にするよう奨励しました。

また、商家では財産を火災や盗難から守る土蔵をはじめ、経済力にものをいわせて住宅を豪華にすることで武士階級に対抗したため、
瓦屋根でしかも複雑な屋根構造の町家が出現するようになりました。
このように瓦ぶき屋根が一般的に普及するようになると、雨水の落下で柱の根元や土台が腐ったり、
傷んだりするのを防ぐため、雨といが使われるようになったのです。

当時の雨といは「木・竹」の天然材料

当時は、建築物の場合と同様、雨といの材料として一般的に手に入るものとしては、木や竹など自然のものしかありませんでした。
とりわけ竹は、奈良時代の「懸樋」の頃から利用されており、節を抜けばパイプ状になる、半分に割れば半円形になるなど、
雨といの材料としてはたいへん好都合であったことから、最もよく使われる材料であったと考えられます。

当時の雨といの施工方法は、軒先のたる木に板を削った雨とい受けを打ちつけ、その上に竹製の雨といを乗せていたようです。
その他には、板をU字型に打ちつけた「箱とい」や2枚の板をV字型に打ちつけた簡素なものがありました。

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