雨といの歴史 雨といの発展(明治時代~)

※当社独自調べ

文明開化とともに海外の文化が流入、専門職「ブリキ屋」が登場!

文明開化とともに海外との交流が盛んになり、さまざまな外国の文化が流入。洋風の建築技術も紹介されていきます。
そのなかには、すでに高度な加工技術による装飾性にすぐれた雨といも当然含まれていたと考えられます。

また、当時「ブリキ屋」と呼ばれる専門職が誕生しています。
ブリキ(Brrick)とは薄い鉄板に錫をメッキしたものですが、
当時は輸入したレンガの包装材料や石油の容器などに使われており、これらの廃品を加工して、
煙突や流し台、半円形の軒とい、そして円筒のたてといなどをつくる職人が出現したのです。
これが現在の「板金店」のルーツです。

金属製雨といの加工技術が進歩

金属性の雨といが出現する下地となった金属加工技術は、
古く鎌倉時代から、なべ、かま、農具などの修理をしていた鋳掛(いかけ)屋、
銅を加工して長もち、たんす、灯籠などの装飾金物をつくっていた銅(あかがね)細工師、
江戸時代後期には錺(かざり)師と呼ばれた人たちの技術です。
明治になって海外から入ってきた金属板という新しい材料を加工するうえで、役立ったと考えられています。

明治から昭和初期、装飾雨といが出現 一般住宅は「ブリキ、トタン」が主流に

金属材料による雨といづくりが一般に普及していった明治時代。当時の板金職人たちは、お互いの技能を磨くために諸国をまわり、
各地の職人たちを訪ねて修行の旅をして歩き、自分独自の流儀をつくり上げました。
また、この頃には銅板が徐々に普及し、高級感や緑青の発生などが、わび、さびといった風流好みの日本人の感覚に受け入れられて、
一文字屋根や雨といの材料として使用されました。

一部の高級な建物には、雨といに竹や梅のデザインを細工したものや、縁起をかついで蛇や龍などの飾り物を取り付けた「装飾雨とい」が出現。
こうした技術や軒先を引き立てる装飾性が、雨といの顔といわれる集水器(アンコー)に引き継がれ現在に至っています。
一般住宅では、ブリキ板や後にトタン板と呼ばれる亜鉛引鉄板が登場し主流となり、
さらに戦後になって、着色亜鉛引鉄板とともに、雨とい材料のほか、屋根・外壁の材料として広く普及していきました。

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